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雅美族の島で
 台湾、ランユイ島 時間の止まってる島
ちょっと変わった旅をしようと思い、飛行機ではなく船で出国しようと考えました。
海外に行く船というと鑑真号で上海、関釜フェリーでプサンは知っている人も多いでしょうが
私はあえて沖縄から台湾の船を選びました。
その船は途中石垣島に寄りそして台湾へと向かうのです。
そうです、石垣島にもイミグレがあり出国できるのです。

東京から鹿児島までヒッチハイクで行き、そのあと、船で沖縄、西表を旅して、そして石垣より船で台湾へ。
そして私のパスポートに「ISIGAKI」という出国スタンプを押してもらったのです。
しかもそのとき石垣島からの乗客は私一人、そう私のためだけにイミグレ官と税関員が来たのです。
船の乗客はすべて台湾人、それもおじさんおばさんの買い出しツアーみたいな人ばかり。
船の人も気を利かせて私に個室を与えてくれた。
そんなに混んでいないし、台湾人と一緒というのもかわいそうと思ってくれたからだろうか。
予定より数時間遅れて船は港を出た、もう外は真っ暗だった。
海は穏やか。波に揺られて狭い船のベットで眠りについた。
船は台湾の南の大都市、高雄に着きました。
税関員は私一人だけ先に通してくれました。
ほかの台湾人は日本からのおみやげでいっぱいでした。

アジアの中でこの国ほど親日派の国はないでしょう。
皆日本人に対して、悪いイメージ、印象は全然感じられませんでした。
初めて台湾に行ったのは中国大陸を旅した後、香港から飛びました。
台北にしか居ませんでしたが、街中に装甲車が配置され「反共必勝」のスローガンが書いてありました。
まだ大陸との関係がうまくいってなかった頃でした。
台湾のほうが経済も文化も進んでいるのになぜかその軍事配備が不釣り合いでした。

高雄から台北まで旅をしようと思い台湾の西から回ろうか、東から回ろうかと考えましたが、
大きな街が少ない東から回ることにしました。
高雄で数日過ごした私は、台東という街に行きそしてそこから船に乗りランユイ島という島に向かいました。
どうせ田舎に行くならとことん田舎を目指せと思ったからです。
船にはお客は数人しか居ませんでしたが、島へ運ぶ荷物でいっぱいでした。
全長約20メートルの船は港を出ました。
沖は荒れてました。漁船を改造したような船には客室もなく、通路で船にへばりついていました。

結局途中の島で客はすべて降り、ランユイ島に降りたのは荷物と私だけでした。
港には車も無く人もまばら、バス停で時間を見てみると1日に数本しかなく、あきらめてとぼとぼ歩き始めました。
そばに集落があるけど、泊まれるようなとこもない。
そのまましばらく海沿いの1本道を歩き続けました。
熱帯の島らしくきれいな花が咲き乱れ、青い空にはカモメが舞い、海はギラギラ輝いてました。
1時間ぐらい歩くと村が見えてきました。
村の前を通ると人が声をかけてきました。
立ち止まって話をしてるとそのうちに人が数人集まりそのうち一人のおじいさんが
「高い金払ってホテルに泊まることはない。うちに泊まりなさい。」と家に連れていってくれた。
「ここは息子の家だけど、今台北に仕事に行っていないからここに泊まりなさい。」
そのおじいさんは片言の日本語で話してくれた。

この村は魚人村という小さな集落。島のほとんどの人が雅美族という高砂族の人たちでした。
男達は小さな手こぎのボートで沖に出て魚を捕り、女達は畑でタロイモや、野菜を育てるという昔ながらの生活をしていました。
お年寄りのおじいさんは今でもふんどし一丁で生活しています。
(それはまさにテレビでよく見るパプアニューギニアの未開の民族と同じような生活習慣?)
また言葉も普段は雅美族語と言う言葉を話していて、年寄りは皆中国語より、日本語の方が上手です。
泊めてくれたおじいさんはこういいました。
「中国人は私たちのことを人間と思わず、教育をしてくれなかった。
しかし日本人は我々に日本人と一緒に学校に通わせ教育をしてくれた。
だから中国人は嫌いだけど日本人は好きだ。」
そういっておじさんは昔覚えた日本の歌を遠くを見つめるような感じで歌ってくれました。
戦争中、日本は台湾を占領してて、高砂族も教育をして、日本の兵隊にしてたのです。
だから言葉の違う高砂族にとって共通の言葉は中国語ではなく日本語なのです。
もちろん若い世代は中国語も話せるが、年寄り連中は日本語しか知らない。
それも日本が戦争をしてる頃、50年も前に話してた古い日本語がそのまま残っているのだ。
そんな歴史を思い出しながらおじいさんの歌を聴いていた。

次の日、歩いて島の散策に出かけました。
その島は火山の噴火で隆起してできたような、周囲が珊瑚礁に囲まれたとてもきれいな島でした。
すてきな場所を見つけました。
そこは溶岩が流れ出して海にたどり着いたというようなところで、ごつごつとした岩場が海に突き出ていました。
ところどころ海とつながっている穴があいていました。
その穴を覗くと透明な水の中にたくさんのきれいな珊瑚や小さな魚が泳いでいました。
大きな穴を見つけたのでちょっと泳いでみることにしました。
青空のぽっかり浮かぶ白い雲、とてもいい天気。こんなきれいな海で泳ぐのは気持ちいい、
なんて思ってたら足元に縞模様のある長さ1メーターぐらいのウミヘビがにょろにょろ。
びっくりしてあわてて水から出ました。
魚人村のすぐ前の海でもたくさんの魚が泳いでいます。
みんな小さな水中めがね絵をしてモリを持ってひょいっと潜って魚を捕ります。
ある時30センチぐらいのロブスターを捕まえた人がいました。
早速近くの島で唯一のホテルに持っていきました。
しばらくするとその人はビールを数本もって帰ってきました。
ロブスターを売ったお金でビールを買い、友達と飲み始めました。
そうそこは手つかずの自然が残っている島なのです。(人間も手つかずみたい。)

魚人村の男達は朝早く、まだうす暗いうちから漁に出かけます。
長さ3メートルほどの赤と白で細かく細工が施された舟に、
一人か二人ぐらい乗り、それぞれ沖に出ていきます。それが手こぎのオールを使って。
小さな小舟は波に押し戻せれながらも彼たちの力強いオールさばきで
どんどん沖に出かけそのうち見えなくなったしまいました。
お昼頃に戻ってきても何も魚が捕れてない人も案外言います。
しかし皆のんびり、明日があるさという感じです。
それでも運のいいときは大きなマンボウが捕れるそうです。
女の人はその間に畑の手入れにぞろぞろと出かけて行きます。
昼過ぎに戻り、撮ってきたタロイモをゆでて野菜と男達が捕ってきた魚で食事をします。
何回か食べさせてもらったことがありますが、味付けは塩だけの非常に質素なものでした。
彼らは米も食べますが、
「稲は育てても台風がくるとすぐ倒れてだめになってしまう。だから台風に強いタロイモを育てて食べるのだ」
とおじいさんが話してくれました。

ほとんどの家の前に2メートル四方ぐらいの屋根だけの涼み台と呼ばれるところがあります。
暇なときは皆、家の中ではなく外の涼み台の上で 時間をつぶします。
ビンロウジュの実に石灰を挟んだ物(インドのパーン)をかみ、たばこを吸って海を眺めながら話をしていると
ほほに感じる海風、いつの間にか時間が過ぎていきます。

彼らの顔つきも中国人と全然違い、タロイモを主食とする南洋系の海の民族なのです。
言葉も発音が南方系の発音です。
おじいさんが雅美族の言葉を教えてくれました。
「私はヤクン、あなたはイヌ、友達はカハガン、ありがとうはアイオイ、さようならはムコナン・・・・」
そしておじいさんは私のラジカセを見つけ私に言いました。
「私が雅美族の言葉を話すから、録音してください。」
「このごろ雅美族の言葉が話せない子供が多くなった。だから次の世代のためにも言葉を残しておいてほしい。」と

確かにその島は自然が残ったきれいな島だ。しかしこれと言った産業もなく仕事がない。
学校では中国語で授業をしてる。
だから若い人は島を離れ台北などの都会に仕事に出る。
島に残ってる若い人たちも中国語を話すようになってきてる。
その子供は雅美族の言葉はしゃべれない。
確かに昔のままの生活をしてるが、テレビやその他の文明の物がたくさん周りにあふれてる。

1週間ほどその島に滞在して飛行機で島を離れた。
飛行機はわずか30分ほどで台東の街に着いた。
そこは見慣れた日本と同じような風景。
あの島だけ何か時間が止まってた様な気がした。
日本のこんなすぐそばにまだ文明を離れた生活をしてる人たちが居ることにすごく驚いた。
あの世界はなんだったのだろうか?
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はのまん@沈没旅行者