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ビルマの両替屋

インドは何回か行ったがビルマはいつも素通りだった。なかなか行こうと思ってもビザも1週間しかもらえずつい行きそびれる。決心してビルマ行きを決め、バンコクから往復のチケットを手に入れた。87年の7月のことだった。

飛行機から見下ろすラングーンは水たまりの中にあった。そして飛行機が着陸するときも水たまりの中に水しぶきを上げ降りていった。今は雨期、毎日雨が降る季節だった。
ラングーンの第一印象はビルマ葉巻の香りだ。

あの独特のにおいが飛行場の中に漂う。インドのビディーに似てる香りだが太さはたばこの倍ぐらい有るだろうか。鎖国主義のビルマでは、たばこは作っておらず、外国のたばこしかない。庶民は安いビルマ製の葉巻を吸うしかないのである。ある日街を歩いてるとビルマ人の若者が声をかけてきた。
「チェンジマネー?」

私はバンコクで買ったジョニーウォーカーの赤とスリーセブンのたばこを売ったので、もうビルマの金はいらない。それに100ドルの強制両替もした。「No!」と断った。彼は私に日本人かと聞いてきた。そうだと答えると彼は日本語を教えてくれと言ってきた。そして私を近くのチャイ屋に誘った。このあとインドやその他の国では色々なことが考えられる。

もしこいつが悪い奴なら・・・と思いもしたのだが、まだ昼間の明るい時間、場所も変なとこではないし、人もたくさんいるし。まあ、ヒマだったからつきあってやろうかと決めた。

彼はチャイを2つ頼んで一つを私に勧めめてくれた。彼が言うには大学を出たがまともな仕事もなく、しかたがなくこんな仕事をしてる。両替して得た外貨はタイまで行って商品に変える。そしてその商品をまたビルマで売って・・・と言う具合らしい。その買い出しでタイのチェンマイまで行ったことがあると彼が言った。山奥まで車とバイクを乗り継ぎ、その先は歩いて国境を越えていったらしい。そんな話をしながら彼は肩掛け鞄(ビルマ人は皆持っている)からどこで仕入れたか日本の英語辞典を出してきた。そして英語の横に書いてある日本語を読んでくれと言う。私がその日本語を読んでやると彼はビルマ語で横に読み方を書き込んでいった。そんなことを約1時間彼の辞典はビルマ語でいっぱいになった。そして彼は満足したように「これで日本語の勉強ができる」と言い私と握手をしてチャイのお金を払い雨の街に消えていった。私は気が抜けてしまった。

エーこれだけでいいの?あれが欲しいとか、金をくれとかはないの?ほんとにあいつはタダのいい奴だったの?疑った私は恥ずかしい気がした。しかし疑わないでだまされた旅行者も数多く知っている。

本当なら大学を卒業して何かまともな仕事についてそして日本語も勉強したかったのだろうけど、この国の貧しさのため、まともな職にも就けず、マネーチェンジでもしなければいけない状況だったのだろう。確かに経済状況は豊かとは思えない。しかし人々はとてもとても優しい目をしてる。

人々の政府に対する不満が爆発して民衆のデモ隊が軍隊と衝突したのは次の年だった。あの青年もデモに参加したかはわからない。ビルマ情勢が早くもっと良くなる事を私は願う。

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ハノマン@沈没旅行者