ハノマンの旅は道連れ HOMEOtherAsia>新宿ハノマンハウス 

新宿ハノマンハウス

新宿区百人町、小滝橋通りから消防署のとこで入ったところ、西戸山公園のそばにそれはあった。新宿区というと東京でも都会のイメージだが、百人町は都営団地が立ち並びちょっと雰囲気が違うところだ。
西戸山公園は朝早く手配師と呼ばれる日雇いの仕事を手配する人達がワンボックスの車で集まる。そしてその仕事にあり就こうという日雇い労働者がたくさん集まるところなのだ。その公園の脇にはその日雇い労働者のためにちょっとした食事をだす屋台、軍手や作業服を売る店が朝早くだけ店を出す。

そんな公園で私は友達と昼間よく近くのお店で買ったお弁当を食べていた。缶ジュースと一緒に。みんなタイのジュライホテルの顔なじみだった。タイから日本に帰った来てここ新宿ハノマンハウスで日本へのリハビリをしてたのであった。

そこは本当は会社の寮だ。
寮と言っても築15年ぐらいの2階建て1軒家で部屋が5つもある。もちろんお風呂や台所全てそろっていた。大久保の駅から歩いて10分。高田馬場も12分。また歌舞伎町から歩いて帰っても30分というとても良いところだ。
ちょっと家を出ると新宿の副都心の高層ビルの夜景もとてもきれいに見える。
ただ私がその寮に移ったときはまだ誰も住んでいなかった。(いやもしかしたら誰か住んでいるのかもしれないが、・・・)昔は会社の人がたくさん住んでいたのだがみんな出ていってしまったのである。有る事件のあとに・・・

実はその家の2階の1室で自殺した人が居たのだ。
手首を切って自殺し部屋の壁が血まみれだったらしい。話はそれだけではない、その自殺した数日後。2階の別の部屋に住んでた係長が突然夜中に悲鳴を上げ窓から飛び降り、足の骨を折る怪我をしてしまった。彼は何に驚いて2階の窓から飛び出してしまったのだろうか?玄関から外に出るという余裕もないくらい、2階であることを忘れてしまうぐらいのことって・・・?
その事件が起きてからみんな寮を出ていってしまったのだ。


私が初めてその自殺した人の部屋を見たときは内装がきれいになりりその痕跡は残っていなかった。どの部屋か知らなかったが、内装がその部屋だけ新しかったのですぐ解った。ただお祓いに使ったのか松の木が窓に立てかけてあった。会社に「寮に移りたい」と言った時、総務の人が「もうちょっと待って、片づけが未だ済んでないから」と言った。
片づけとはどうもこのお祓いことであったらしい。

昼間はまだ良かった。夜その家に一人。2階から飛び降りたのは夜中と言っていた。
私は1階の一番玄関に近い部屋でその夜を過ごした。夜中の1時過ぎまで漫画を読んで過ごし(2階にテレビが有ったが怖くていれなかった)それから布団についた。
夜中には何も見えなかったし怪しい物音も何も聞こえなかった。次の日の土曜の夜。
友達が集まりどこかのクラブに出かけようと言う話になっていた。
ちょうどテクノパーティーがあるらしかった。
しかしなぜか入場を断られ、みんなどうしようか?と言うことになった。
「私の所に来ない?」と私は言った。あの怖い夜を一人で過ごすのがいやだった。みんなが家に来て話をした「実はここで・・・」信用しなかった人も居たがその部屋を見せてあげるとみんな納得をしてた。しかしノリの良いみんなだ、じゃあせっかくだからビデオを見よう、
どうせだからホラー映画を・・・と言うことになり、「13日の金曜日」シリーズを見てた。
私はビデオよりその部屋の方が怖かった。

友達が見つけてきたその仕事は電話を持ってない人に電話の権利を売るというセールスの会社だった。週に3回昼の1時の会社に行けばいい。そして約2時間ぐらい書類提出とミーティングを済ませば出社は終わり、(そのとき仕事が有れば別に出社しなくても良いぐらい)後は会社を離れいつどこで仕事をするかは完全自由という誠にふざけた仕事だった。でもその代わり固定給はいっさい無い、完全歩合制だった。
売り上げがゼロで有れば給料もゼロなのだ
そんなおいしい仕事だ、タイから日本に帰って来た友達がみんな入社した。

しかしそんな仕事、今まで日本をはなれタイやアジアでのんびりしてた奴らが働けるわけはなかった。毎日仕事もせず会社帰りにビリヤード、会社のない日はボーリング、夜はどこかのクラブに踊りに行き夜遅く寮に帰りまた朝までビデをを見ているという生活をしてた。昼過ぎに起きて天気のいい日はお弁当とジュースを買って近くの公園でみんなでピクニック気分で楽しんでいた。
気がついていたら会社に関係ない奴らが数人居候をしてた。この頃、植木均のスーダラ節を良く歌っていた「分かっちゃいるけどやめられないホレ、スイスイスダラ・・・」

そのころはまだバブルの絶頂期。
そんな生活をしながらもそこそこに売り上げが有ればサラリーマンよりいい金がもらえた。
だから数ヶ月働いた後1ヶ月ほどタイに旅をしてた。それでも会社をクビになることもなかった。そして引っ越しのシーズンの4月、ちょっと一生懸命働いた私は1ヶ月で120万の収入があった。大分お金が貯まった私は5月にまたタイへと旅だった。またその会社で働いていたみんなもおいしい季節が終わりもっと確実な別の仕事に代わっていった。

しかしタイでの生活も日本のあの生活が後を引き金があっという間になくなっていってしまった。楽してもうけたお金、苦労してない分使うのも早かった。

それからしばらく経った後その家を見に行った事がある。たまたま近くを通ったのである。するとドアに何か張り紙がしてあった。どうも会社が潰れて債権者の管理に代わったと言うお知らせの張り紙だ。今は携帯電話が主流になり、電話の権利を買う人が少なくなってしまった。またバブルはもはじけ誰も高い電話の権利を買う人も居なくなった。
どうせ携帯も必要だし携帯だけ有れば間に合ってしまう。
あの生活もバブルの時代だからできた生活だ。

やはりバブルのように消え去った新宿ハノマンハウスだった。



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