ハノマンの旅は道連れ HOMEChina>日本語講師 

 日本語講師
中国の南端、広西省の南寧と言う街で大学の日本語講師をしてたことがあります。
私はやりたくてやった訳ではないのですが、ちょっとした中国人の親切というか、
勘違いというか・・・・・

それは私が桂林から南寧へ向かう列車の中での出来事です。
そのころ中国はまだみんな人民服を着てました。(1984年)
私も外国人料金を払うのがいやで、人民服を着て中国人に化けてました。
そして胸に日本と中国の国旗のバッジをつけてました。
それを見た隣のおばあさんが、「あなたは何か日本と関係あるの?」という感じのことを言ってきた。
実は私は日本人ですというと、おばさんは表情を変え、
「私は昔、満州に住んでいました。日本語を学校で習い、日本人の友達もたくさんいました。」
とにこにこした顔で言いました。
そしていろいろ話をしていると「仕事はなにをしてるの?」と聞いてきた。
そのとき私は日本でしっかり働いてお金を貯めた後で、
しばらく旅をしようと思ってた時なので、「仕事はしてない。」と答えました。
するとおばあさんはちょっと顔を曇らせました。
列車は南寧に着きおばあさんは私に宿を紹介してくれましたが、
やはり外国人は外国人専用の宿でなければ泊まれなく、おばあさんと別の宿に泊まりました。

次の日そのおばあさんが私の所に訪ねてきました。そして
「あなた日本語を教えてくれませんか?孫の行ってる大学の日本語課には中国人の先生しかいなく、
日本人はいないのです。だからあなたが日本語を教えてあげて下さい。」
と言ってきたのです。
そのときはまだ旅に出たばかりでこれからタイやインドと考えてたときだったけど
そこまでお願いされてしまうのなら、日中友交のため、私でよいのならと引き受けました。
でも本当に私でいいのと思いながら、その大学におばあさんと行きました。
そして大学側と話をするおばさん、しかしなにやらおばさんのいうには
仕事のない日本人がいるからここで働かせてやってくれと頼んでいるよう。

大学側も確かに、日本人は必要だからと話が進んでいった。
あれ?と思いながらも、まあいいや、急ぐ旅でもないからとわりきりました。
そしてホテルじゃ金がかかると大学の事務のポウさんの家に居候することになりました。
彼も日本語を勉強してて片言の日本語が話せました。
そしてとりあえずポウさんと一緒に大学に通い中国語の勉強をしてました。
そんなある日いきなり「今日授業がありますからお願いします」といわれた。
そんな急にと思ったけど、しゃあないと授業を始めた。
大学と言っても夜間大学で生徒も50人ぐらい居るが皆レベルがバラバラ。
「今日は日本語の聞き取りということで日本語で全部はなしますからとにかくきいてください。」
とにかく話し続けた。途中休憩時間に生徒が日本語の歌を教えてと言ったので後半は日本の歌を教えた。
そのころ日本の歌がはやっており、四季の歌、北国の春などたくさん歌った。
どうにか授業を終わらせた。ものすごく疲れた。

日本語課の生徒の写真



数日後、南寧市の公安局にポウさんと行った。
「この人をうちの大学の先生にしたいのだけど」とポウさん
「そんなのだめだ」とあっさり。ねばるポウさんにしかたなく
「市の教育庁の許可が出れば認めよう。ところで今どこに住んでるんだ?」
「いまは私のうちだよ」
「今はまだタダの外国人だから外国人専用のホテルに泊まらなければだめだ」と。
しかし、外人用のホテルはものすごく高い。
そこでポウさんの知り合いの日本語のガイドがホテルに話を付けてくれた。
「タダで泊めるわけには行かない。
だけど日本語の先生ならうちのホテルの従業員に日本語を教えるならいいよ
とホテルの支配人がいいました。
それから私のホテル暮らしが始まった。
それもホテルの離れのコテージみたいなツインの立派な部屋だった。
そして日本語をホテルでも教えることになった。生徒は約15人、
皆レストランのウエイトレスだった。
しかも皆20前後のかわいい女の子ばかり。思わず鼻の下が3センチのびた。
日本語は初めての子ばかりなので、あいうえおからでよかった。
「あ・い・う・え・お」と私「あ・い・う・え・お」と生徒
「か・き・く・け・こ」「か・き・きゅ・け・きょ」
「うん誰きみきみ、かあー・きー・くー・け−・こー、はい」「かー・きー・くー・けー・こー」
「はい上手」なんていうでれでれした雰囲気の元に授業は進んでいった。

ポウさんが毎日大学が終わってから遊びに来た。彼が色々なところへ連れていってくれた。
ポウさんの彼女の所(なかなかかわいい)、結婚する友達のパーティ、映画に行ったり。
大学の生徒の家で昼に餃子パーティ、ホテルの従業員の家で上海料理。
夜には舞踏会。中国ではまだディスコはなく、社交ダンスだけだった。
つまみにスイカの種を食べる。
彼は地元なので知り合いがとても多い。そして色々な人を紹介してくれる。
日本人の友達を自慢するように。
中国人の若者の生活すべてを味合わせてくれた。

結局教育庁の許可が下りるわけなく、先生はしなくてもよくなった。(ほっとした。)
私の1ヶ月の南寧生活が終わった。
そして旅を続けることにし昆明まで飛行機で飛ぶことにした。
飛行場までポウさんと数人の友達が見送りに来てくれた。
ポウさんは背広を着てきた。
中国の政治家たちが人民服をやめ、背広を着るようになったらしい。
中国も変わり始めたのかなーと感じた。
ポウさんの日本語も会った頃よりだいぶうまくなってた。
飛行機に乗り、スチュワーデスの話す中国語がだいぶ理解できるようになってた。


10年以上前だけど、日本で東京の代々木のユースホステルに泊まってた時のこと
ちょうど中国残留孤児の身元調査団が来日してた。
彼らは同じ敷地内の違う建物に滞在してた。
そしてその中に知り合いがいないか探しに来てた2人のおじいさんが
ユースに泊まってて話をした。
「うちの村からたくさんの人が満州に移民してたから、
毎回残留孤児が来たら誰か知ってる人が居ないか探しに来てる」と。
その人も昔満州にいたことがあり、この前久しぶりに満州に行って来たというので、
「中国って日本の30年前ぐらいですか?」って聞いたら、
「いやいやまだ戦争前の日本だよー」といってた。
最近は中国もだいぶ近代化したなーとテレビを見て思った。

BACK
China
NEXT
e-mail:
はのまん@沈没旅行者